そう言えばなぜ俺はThelonious Monkに日に日に浸るようになったんだろう?
自らの記録に残している最初のものは
2006年のSWING-Oとして唯一リリースしたソロアルバム
"ASOBI~sex soul TOKYO"
というアルバムに
シンガーのbirdをフィーチャーした曲を入れたんだけど
そのタイトルが「モンクなし」という曲だった
これは俺が歌詞ごとトラックごと書き下ろした曲だったんだけど
だ洒落のようなタイトルだけど
「モンクなしで歩き出そう」とサビで歌う曲で
「つべこべ言わず(文句言わずに)とりあえず前に進もうよ!わたし!」
という意味と
「セロニアスモンクはもういないけれど、前に進もうよ」
なんて意味をかけて作った曲
そして曲調も、
モンクの名曲の一つ、
Misterioso(ミステリオーゾ)を真似た、
ピアノのアルペジオを中心にした
でも揺れたNeo Soul的トラックと融合させた
俺的には「古きものにリスペクトを示しつつ」「少し進んでみた」
そんな楽曲
そんな作品を残したことから察するに
俺が最初にモンクの面白さをキャッチできたのは
Misteriosoなんだろうなと
多分音源としては1958年のRiversideからリリースされた
Five Spotのライブ音源だったと思う
これをどのように俺が料理したかは
廃盤ではないのにweb上に音源が存在していないので
興味ある方はCDを入手してもらうしかない
←こちらだと大丈夫です&軽く試聴できます
***
もう一つ思い出すことがある
さらに遡ること十数年、
90年代前半の
テレビ東京通称テレ東で
素晴らしい音楽番組「モグラネグラ」というのがあって
そのホストが
UFOの松浦さんと
オリジナルラブの田島さんだったんだけど
その中でセロニアスモンクのメガネの話をしていたのだ
紹介されていたのは
"Monk's Music" 1957年 Riverside
のレコードジャケットで
この変てこなジャケットでモンクがしている、
竹のフレームのメガネのことを田島さんが
「このメガネを探してるんだ」と言っていた
その視点の面白さが強烈に印象に残った
レコードジャケットをファッションの参考にするんだ!
そしてこの、
崇高でかつ難解に聴こえる音楽のジャケなのに
風変わりだけどお洒落で
かつふざけてもいるようなジャケットも印象に残った
でもまだ当時はよく理解できなかった
そして3,4年ほど前から
理由はよく覚えていないが
モンクのソロピアノの名作&代表作とされる
"Thelonious Himself" 1957 Riverside
を携帯に入れて、
一人で寝る時のBGMにすることにした
名作と言われても、
最初はやはり難解でよくわからない
なんならばどれも似たような感じに聴こえる
、、、というのはモンク初心者と一緒だろう
でも俺には過去にPrinceからHipHopからBluesから
いろんな「どれも同じように聴こえる」とこからスタートして
あるとき「その面白さが聴こえてきた」
という経験をしているから
その「難解」なものをなんども聴くことは苦じゃなかった
そして3,4年が経ち
昨年2017年からついに人前でモンクを弾き始めた
まずは手始めに"Ask Me Now"から
この、こねくり回してる感じは
今でこそ楽典やバークリーメソッド的には解説できるのかもしれないけど
そっち側から解釈したくなかった
何度も何度も聴いているうちに
俺の耳と手がキャッチした部分からまずは弾き始めて
とにかく体に叩き込む
叩き込んだ上でやっと発生する20%ほどの自由
そう、モンク(直訳からジャズの高僧と呼ばれる)の音楽は
いわゆるジャズスタンダードとは全く違うのだ
まずテーマをやって、崩せばいいという音楽じゃない
ハーモニーやメロディの動きそのものが曲なのだ
その感じが俺の肉体的に分かってくると、すごく心地いい
(ちなみに6.25.2018にまたソロピアノライブをしますよ)
まだ俺の体の中では、モンク部屋が見つかった程度なんだけど
そんな俺のモンク感が出来ると
「あ、この解釈は違うな」「モンクならこの解釈は残念がるだろう」
というのが見えてくる
その俺の解釈が正解かどうか、がここでは大事ではない
そんな「音楽感」が出来てくるから面白いということ
(そういう意味では昨年出た某日本人女性ピアニストのモンクトリビュート作は
俺からすると、「違う」)
***
そんなこんなで
ついにモンクにしっぽりとはまってしまった2017年だったんだが
本当に俺からすると偶然で
まさか昨年2017年が
「モンク生誕100年」の年だと知ったときはビックリした
生誕100年を記念した特集本もいろいろと出ていたし
分厚い新書でオフィシャルな伝記本も出ていた
それはまだ手を出していないが
そして音源もいろいろと発掘&発表されていたのも知った
最初に出ている写真(日本人が撮影したモノクロの写真)の
"The London Collection"などは今年2018年に入ってからリリースされたもの
これは俺がすでに持っていた赤と青のジャケットの"The Man I Love"などと
内容がかぶるもので、
モンクの人生最後のスタジオレコーディング作品
1971年ロンドンでレコーディングされたコンプリート音源集もあったし、
発掘系だと、
2005年に出ていた(俺は昨年知ったんだけど)
コルトレーンとのカルテットで
カーネギーホールのライブ音源、というのもよかった
どちらかといえば劣悪なピアノを弾いている音源が多い中、
(南博さん曰く)
コンディションのいいピアノを弾いている珍しい例だとも言われる音源だった
でもピアニストの俺からすると
コンディションのせいというよりは
そもそものピアノのチョイスと
何よりモンクのバカでかくて骨太な手のせいではないかと思ってるが
そこらへんはまた調べたりしてみよう
***
モンクという魅力的な「謎」を持つピアニスト
その彼を「天才」と一言で片付けるのは怠惰だ
彼は社会的には実に偏屈で、でも彼自身はまっすぐだった
彼の人となりを把握するのも、彼のピアノを知るのに必要な要素
そんな彼を知るにうってつけの本が
「セロニアスモンクのいた風景」村上春樹 編・訳 2014年
村上春樹自身の書き下ろしも面白いけど
この本が素晴らしいのは
いろんな伝記本から雑誌記事から
モンクについて記された部分のスクラップブックの形をとっていること
名言から奇行からいろんな伝説があるモンクを
モンクと接触してきたり、モンクに気に入られたりしてきた人たちの
彼らの目線から語られるモンク像
時に時系列なり事実がずれてる場合もあるけど
それは大事なことではない
(翻訳者 村上春樹自身がそれを把握しつつ放置している)
いろんな目線から語られることで浮き上がってくるモンク像を知ると
彼は決して「天才」ではなかったことを知ることができる
少し変わった人だった、という距離感に彼を感じることができるようになる
そこがいい
この本の中で、ジョージウィーンというプロデューサーが懐古する言葉があった
「私の中ではモンクと(デューク)エリントンは、ジャズの純粋な伝統の中から出てきたという意味で似たようなものを感じている。ただ惜しむらくは、もしモンクがエリントンのように、創作の幅をどんどん広げて、自分の才能をもっと上のレベルまで持っていくようなことが出来ていたらどうなっていただろう?と夢想せずにはいられない」
確かに1950年代まではモンクも積極的だったが
60年代からどんどん固定のバンドでの演奏と
既発の楽曲の再演ツアー
という固まった活動に収束していく
そして1971年のレコーディングを最後にレコーディングから遠ざかり
単発こそ1976年に出演歴はあるが
1972年のツアーを最後にツアーも終え、
1982年の死去までほぼ引きこもりの日々を過ごすことになる
まさに人生も「収束」していく
その間に発した言葉は"No"だけだったという話は有名だが
この本の中では
「いいや、思わないね」
「いいや、弾く気はないね」
「いいや、そうしたくない」
と私にはセンテンスで答えてくれてラッキーだった
というプロデューサーの言葉も出てくる
でも、今でこそモンクを知る皆が思うだろう
その「収束」具合を含めて
「謎」の人生をそいとげたという意味において
現在のこの「モンクの謎」「モンクの魅力」が誕生しているんだと
なぜならエリントンは素晴らしいんだけど
教科書に載っているようなタイプの才人として残っているのであって
カリスマとしてではない
***
先日の話「音楽を愛しているか、愛されているか」
にかぶせるならば
彼もまた相思相愛な関係だったとは思う
ただ、ほんの少しすれ違いが出てくると
いち早くそれを察知して
フェードアウトして逝ってしまった
その関係性が実に不器用なくらいバカ正直な関係性だった
その一本気なとこが魅力なんだろうな
「ビバップの高僧」「ジャズの高僧」とはよく言ったものだ
というかMonkという名前がそのまま体を表している
そこがいい
いろんな謎がありながらキャッチー
そのバランスが今世紀のここ数年、より魅力的に見えてきた理由なんだろう
だから日本でもWonkと名乗るバンドが若手で出てきたりするんだろう
彼らはアルバムタイトル"Sphere"から彼ら自身のレーベル名"Epistroph"から
逐一モンクにまつわるものを引用しているしね
うん、いろいろと語りだしたら切りがなくなってしまった
これからもゆっくりとじわじわと
モンクの魂に触れていこうと思う
俺にとってのモンクはまだまだこれからだ